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対談シリーズ 若松美黄先生 小山佳予子先生

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若松:そうそう。だから一概に「治すのがいい」と言えない時期もあってずっと悩んでいてね。ヨーロッパやアメリカなんかでも、得意なほうばかりでやっているんですよね。だから、さっき言ったように「出来なくてもいいや」という感じで使っている。外国では「左まわりができれば、右はいいや」みたいなのが平気で通っている。非常に不思議なんですよ。だから今言ったように、体って一概に言えないっていうね(笑)。というのが前置きっていうかね。こんな風に話したり、原稿を書いたりする時も一番考えるのは、読む人は個人で自分の事だと思って読んでしまいますからね。だから、一概にはいえませんよ、っという部分に神経を使わないと。やっぱり、個人差はすごいですからね。

鈴木:なるほどそうですよね。顔形が違うように、体も一人一人にほんとうに特色が有りますよね。
話が少し前に戻りますが、先生がおっしゃっていた通りに「まっすぐがいいし、整っているほうがいい」というのは机上の空論なんですね。
私達が体の矯正を行っていく上で、体の持つ「平衡性、可動性、強弱性」という3つのカテゴリーバランスを重視しているのですが、この「まっすぐにする」、体のバランス=平衡性という部分をもう少し詳しく見て行くと、まず内臓の配置や質量が左右で違う。利き腕と重心足などの運動時の差異が幼少期から有る。利き腕が有るという事は、重たい物は反対側の腕で持つようになるから筋肉の発達具合に左右差が生じる。常に体重を支える重心足が有るという事は、骨盤の関節を始め諸関節機構に左右差が生じる。などの後天的に構造形態にも差異を生じさせます。またこれも先天的か後天的なのか本当のところはよくわからないですが、骨の長さや太さも左右で同じではない。言ってみると体ってバラバラなんです。
ですが矯正していく指標として平衡性=前後、左右のバランスを重要視しているという事なんですね。
しかしこの平衡性を中心に体の矯正を組み立てて行くのは幼少期から30歳くらい迄で、中高年から老年期に行くにしたがい可動性=体の弾力性を回復させて行く事が、骨格矯正の主軸となっていきます。
真っすぐであるに越した事はないのですが、たとえ曲がっていても体が強くて(強弱性)弾力が充分に有れば、それはそれで素晴らしい体であると考えています。
自然手技療法では、この3つのバランスを個体の特性を踏まえながら少しずつ拡張していく方向へ持って行こうじゃないかと考えております。
そのような事を踏まえて、「個体差がある」という事を少し掘り下げて行きたいのですが、例えば体を鍛えようと思ってベンチプレスのような単純な反復運動を行った場合でも、ある人は胸の筋肉を使って挙げるし、ある人は腕の筋肉を使ってやる。またある人は背中の筋肉で挙げようとする。そこに「学習」というものが入っていないと、それぞれが得意とする部位を使いながら好き勝手に、バラバラな動きを行っているのが普通です。
それはある種目、競技において使用する部位が決まっているという事ではなくて、個体差、自分の使いやすい所とそうでないところがはっきりとわかれてしまう、という事です。
ではなぜはっきりわかれてしまうというのか?と考えて行くと、例えば、手のひらと手の甲だったら、ほとんどの人が手のひらのほうが認識しやすい。お腹と背中だったら、お腹のほうが認識しやすい。体というのは誰でも均等に認識出来ている物ではなくて、「意識の分布図」とでもいうのでしょうか?ちょうどホルスタインの模様のように、はっきりと意識しやすい部位とそうで無い部位とが明確に示されている。それを自然手技療法では、体に投影された意識「身体の意識/ボディコンシャスネス」という言葉を使って考えています。
これは従事している競技によって、例えばゴルファーにはゴルファーとしての身体意識が発達してきます。野球の投手は投手の、上肢を使う身体意識が発達します。運動時の意識形態が一番バランスよく体に投影されているというのはやはりダンサーなんじゃないか、と思いまして、本日、舞踊家である先生にこのようなこと、体に投影された意識「身体意識/ボディコンシャスネス」という事をお伺いしたい、と思って参った次第です。
先生の身体意識といいますか、どのように訓練してゆくのか、など、私達一般の人間が少しでも参考にさせて頂けたらと思いまして、出来れば、その辺りのお話からお願いします。

若松:今の話はすごく、論理的に説明なさっていたと思うんですけど、意識のことは、すごく難しい。年齢とか...。 まず、一番最初に先生から習った時、子供のときに習う意識があるよね。やっぱりプリエというポーズからやるけど、やっぱりプロフェッショナルになってくると、同じプリエでも全然意味と内容が違う。それはやっぱりプロになればなるほど意識が違ってきているから。また年齢が高くなればなるほど「あ、そうか」とわかる。そういう、同じようなことが意識の違いで全然違う、ということがある。
最近コンテンポラリーダンスの公演の映像を見たとき、ダンサーのレベルはみんなとっても高くって、すごくいいんだけど、何か物足りないって感じてしまったんだよね。コンテンポラリーって、小さなテーマはあっても、あんまり大きな明確なテーマがあるわけじゃなくって、物語性とかなくって。前も後ろもそんなに秩序がないのが多いんですよね。すると30分ぐらいまでは面白くっていくんだけども、その後になるとパターンが全部決まってきちゃって。さっきも話したようにダンサーそれぞれが得意なことをやるんですよ。だからパターンがそれほどあるわけじゃないから、30分ぐらい見るともう飽きてきちゃって。最後になると、「う〜ん...」という感じになっちゃう。多いんですよ、こういうパターン。
きれいな容姿を持っている人がダンサーが踊ったらかわいいんですよ。でも何分かしてくると、それを超えて、表現内容っていうと極端だけど、別の演劇っていうか、その人を通り越して、ダンスのある種の神の啓示とか、宇宙とか、そういったものがダンスの合間に見えてくるときに、本当の舞踊的な感動というのがあるわけなんだよな、と、いう風に思ったんですよ。
そうなると、舞踊というジャンルの芸術の中に魅力があるんだったら、それは何だろう、と。
つい、先日舞踊のシンポジウムをやっていて、日本のコンテンポラリーダンスを紹介するビデオを見たんですよね。で、色々な舞踊には多様な広がりあるんです。でも見終わると、えー、これって、昔から舞踊そのものは変わってなくて、見せ方が変わっただけなんじゃない?って私は言ったのね。そしたら場がしらけちゃって(笑)。でも、僕が活躍してた50年代も同じで。当時は映像というのが新鮮だったんで、8ミリでしたから普通に撮影していたら画像が小さいと。するとヌードさんを並べて写せば、なんか面白いじゃないですか?(笑)そんなことやっていたわけですよ。今も同じようなことで。そんなことをずっとやっておもしろがって新しいね、って言っていた時代を何十年か過してずっと見てきたわけで、でもそれって、過ぎてみれば、舞踊そのものが最終的に、どうも向上してないんじゃないか?っていう...。これ、昨日今日の考えなんですけど。
舞踊っていうのは、究極のところ、ただお客さんを集めてきれいな踊りを踊ればいい、っていうものでもなくて...。一番自分が舞踊を見て感動したのは何かっていうと、案外、ないんですよね。
一つは巫女舞いかなあ。沖縄の女舞いっていうのが比較的日本の能に近いようなものなんだけど、それが、日本の現代舞踊だとか、バレエとはまた違う伝統芸能なんですよ。それはそれでまた大きな構造的な欠陥だとかを持っていながらも、なんか魅力があるんですよ。どこかわからない。彼らはみんな巫女さん的な、宗教的なものを強く持っている。でも別に、深い信仰がある人が上手いっていうのとも違って。
それから、昔見た世界の民族舞踊のビデオの中に、アフリカの黄金海岸の子供たちがお祭りの日に踊るっていうのがあって。普通はトレーニングするとかレッスンがあって、コンセプトがあって祭りの日を向かえるんだけど、この子供たちはなんと驚くことに、全然何もやってない。ただお祈りしたり、唄ったりして自然な生活をしているんですよ。全くトレーニングをしてない。でも祭りの当日、お香がたかれて太鼓が鳴ると子供達が突然踊り出すんです。だから何も教えてないの。多分宗教的なものがあるんだろうけど、それはフィルムには写っていない。それがなんとも清々しいんですよね。これは何なのだろう?と。
論理的な話と、非論理的な話を両方しましょうね。それが"体"なんですよ。
つまりダンスは、一つはプロフェッショナルが論理的にやってゆくっていうことと、もう一つは、民族舞踊などの巫女さんのように、トレーニングなどはないけれども、美しく舞うことができる。日常の身体表現の範囲内でやれるものとがある。今の時代は両面を取り入れられた人が勝ちって感じがするんですよね。
お金払ってみせるようになると、全部お客さんに見せるっていうことに意識が集中してしまって舞踊の全体構造がどうも少しわかんなくなっちゃった。だから根本的には意識の中に伝統だとか歴史だとか、神だとかおそらくあって、その舞の中にそういうモノを感じるような人が素晴らしいダンスだ、とインプットされるので、足が高くあがったとか、高く飛んだね、とかいう要素だけで、本当に感動させられるっていうことはないんですよね。

人を感動させるのは、技術だけではどうも、ないらしい。

その内側っていうのが、なんだかわからないんだけど、古代社会から僕らが大脳の中の古い皮質にある天からの雷鳴を恐れるような気持ちがなければ、競争できないですよね、アートは。
次に、私がダンサーとして、体をどう考えていますか?ということになると、やっぱりイメージがあるのは、形ですよね。筋肉感覚で「あ、これがいい感じだな」と感じる事。
一つのダンスの稽古って、大抵45日間ぐらいあるんです。ミュージカルなんかでも、45日間朝から晩まで練習して、それをステージにもっていく。45日って、なんでかしらないけれど、パターンなんですよ。その間、かなり禁欲的な生活をしているわけです。そうすると、最初は決められた振り付けをやっているけれど、やっているうちに筋肉の位置や、腕や足を上げる角度なんかを「ここじゃないかも...」と微調整をしはじめる。この位置に変えると、気持ちがいい。単純に言うと、なんだか違和感のあるポーズがあると、気になっちゃう。それを調整してツボに入ると気持ちいい。
モダンの場合は、振り付けの決まりが自由なように見えるけれど、45日間ずっと稽古していって、通った軌跡っていうのは、けっこう信用できるんですよ。プロとして一定の才能を持った人が45日間磨くと、気持ちのいいところに落ち着くから、見ていても気持ちいい。アマチュアの人は、そこまでのトレーニングをしていなくて、その"決まる"ポジションがないから、見ていても違和感があるんじゃないかな。それが「練習が足りない」っていうことですよね。
ダンサーとしては、45日の練習が終わった時に気持ちよければ気持ちいいんですよ。一番最初は無理な姿勢かもしれないけれど、基本的な技術を持っている人が、ある一定期間反復したら、ある種「プロとしての考えずにやれる」ところに辿り着ける。
練習中は「これでいいかな?」「なんか違うかな?」と頭の中に言葉が山ほど浮かんできちゃう。でもある一定の反復を経て、形が自分の中で「決まる」と、あんまりものを考えなくなる。イメージとしては、川が流れてゆくような感じ。いい舞台っていうのは、川のように動きがサラーっと流れる。稽古は何のためにするかっていうと、その川をイメージしながら、何回も反復すること。