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対談シリーズ シュタイナー教育 子安美知子先生

子安:私自身が、こりゃ、いけないと思ったことがいくつかあります。私は教育ママでした。娘がこの学校に入って、最初の6週間、毎日ドイツ語の授業ばかり。エポック授業といって、同じ科目を数週間続けるんです。7週目に算数エポックになったら、算数ばかり。せっかく集中して覚えたドイツ語を忘れてしまう、と心配して先生に、家で少し教えておきましょうか、って相談しました。先生がそのときにっこりうなずいて、「その忘れるってことが大事なんですよ。あれだけ集中して学んだものは」って言われたのは、カルチャーショックでしたねしょうね。父母会でもよく出る質問でした。
忘れていいのかってこと。その後の長い年月で、シュタイナーの人間観から少しずつ納得がいくようになりましたけど。
私自身、授業中に黒板を叩いては「忘れないでね!」 と叫ぶ教師でしたから、これは頭を殴られる出来事でした。それ以後も「忘れないで」を止めることはできないながら、言う回数が減ってきたのは事実です。シュタイナー学校の先生が書いた本に、「教師たるもの、今生徒の前で語っているすべてのことは必ずや忘れ去られる運命にあると自覚せよ」とありました。で、「忘れ去られた後に何が残るか。何がその子の力になるかを考えよう」というのね。
食べるものも、にんじんが大事だってことで、よく噛んで食べますね。そのにんじんが、体のどこに入り込んだかわからないぐらいかみ砕く。すると入り込んだものは、いつのまにか「ちから」になってしまっている。そんなふうに、知識というものは集中授業の中で、毎日毎日物理の実験をして公式を導き出して・・・といったそのこと自体は忘れてよろしい。
でも、集中して事柄に取り組んだ力が人間を育てている、というわけなんですね。
こう話していて、教師としての私が一朝一夕で変わったわけではありませんけれど、ただ自分の中で、単に忘れるなというのは無意味なんだとか、こうやってがんがん教えていても、ドイツ語なんか忘れちゃうんだろうなと思ったとき、わびしい気持ちにならないで、それでもこの学生たちと共に経験した授業というもので、何かが残るんだろうな、と。何も残らない授業だったら私が至らなかったわけだ、と時々振り返りながら授業を続けた40年でした。いろいろな学生との縁も続いておりますし、変わった先生だと思われたらしいですが、そのことに私は幸せを覚えています。

子安:家族ならざる家族を形成していたのは、健常者と障害者の家族でしたね。自立した人間同士は必ずしも共同生活が強制されているわけではありません。一人であることも凄く大事だし、孤独な時間も重要です。人と繋がることも。大事なのは繋がりの中身。ずっと昔、繋がりの特徴は血縁でした。それから国や民族といった土地の縁。

これからの時代はそのどちらからも脱していく。血や地に縛られた縁から脱して、人の意識が共有できる時代になる。長いスパンでの歴史進行においてですけれども。19世紀末くらいからそういう時代に入ってきていると言われています。地や血に縛られると戦争や殺し合いが起きてしまう。意識の共同体であれば、ここにいる自分とニュージーランドにいる誰かは、意識としては一緒だけれど体が一緒にいる必要はない。障害者とは、その場での交流が必要だから、一緒に住むのですね。本物の家族ではない家族作りがそこでは目指されている。親御さんたちは離れた土地にいて、子供をそこに預けるなどして。

鈴木:今先生が仰った「血」と「地」と「知」の3つの「ち」ですね。私は別のところできいたことがあります。それも発祥はシュタイナー哲学からなんでしょうか?

子安:日本語で言うと3つとも「ち」なのですね。それは面白い。いいヒントです。
知性と知能指数的な知と区別する必要がありますね。知能の方は下手すると悪になりうるわけですね。自然科学・技術オンリーになって原爆やへんちくりんなものを見つけていく知能は、一方で悪になり得ます。でも、知性・知識は感性、魂の力に健全に裏打ちされていれば、一面的な知能犯的なものにはなりませんから。

鈴木:僕たちの仕事は、例えば医師と違い、血液やレントゲンを読み解くわけではありません。自分の主観に基づいて好不調を判断し、適切な施術をしていくという特徴があります。そこにはどうしてもセンスのいい人そうではない人という差が生じます。
センスのいい人は自分の感性を頼りに、文字通りセンスのいい施術を行うのですが、そこに危険が伴います。感性だけに頼ると自分の好不調、好き嫌い、などいろいろな自己的要因でばらつきが大きくなり、ある程度から先の成長は止まってしまいます。
一方、あまりセンスの良くない人は、どうしても理論、理性的に体を読み解いて行こうとします。ですが机上の勉強だけに偏ってしまうと、現場の運動神経が鈍くなります。変化やイレギュラーに適応できないのです。
結局は理性、感性どちらに偏ってもダメなんですね。理性と感性という対局性をパラレルに進行させていく。その到達点に悟性がある。そこを目指し私たちは日々精進していかなければならないのだと思っています。そういうことをスタッフにも、自分にも課しています。インスピレーションを鵜呑みにせずに、科学的思考の叩き台の上で充分に叩いて真理を導きだしていこうとするシュタイナー哲学に共感できるところがそこなのです。

子安:まったくおんなじです。私も年の功で人様に何かを教えたりする場面でも、自分自身のまだもうちょっとましになっていきたいという面でも、難しい。やはり精進なんですよね。日々の精進て簡単に言ってしまうけれども、それしかないんですよね。
精進って、薄皮がはげていく程度にしかできないですけど、ときに薄皮のはげていく段階が飛躍というほどでもないけれど、ちょっと飛び越えていく感じになることも無きにしも非ずだから、その点に希望をこめてやっていくしかないんじゃないかなぁ。